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「雨、雨 ふれ、ふれ母さんが」でも無いが今日も雨、うっとうしい梅雨だが、やはり日本の四季は間違いなくやって来る。中でも今日は俗に言う「梅雨寒」で寒いくらいである。人の嫌がる梅雨だが、梅雨には梅雨の役割と意義があり、無くてはならない梅雨でもある。
梅雨を喜ぶ人はあまりいないと思うがしとしと雨に濡れるアジサイを見ると「梅雨また楽し」と思う人も多いだろう。毎日欠かさない小生の散歩道にも雨に濡れて生き生きと映えるアジサイが思い切り大きく咲き誇っている。梅雨また嬉し、よくぞアジサイである。
今日の読売「四季」に「かたつぶり けさとも 同じあり所」 (召波) と言う句があった。所とは雨に濡れるアジサイの葉である。北原白秋の詩にも「まい まい つぶろ」と言うのがあり産まれたばかりのカタツムリのツノを危ぶんで「雨 雨 やめよ まだ雨痛い」と歌う、これも梅雨ならではの光景であろう。梅雨にはアジサイの外にカタツムリも欠かせない事を知った。
この様に詩人の感性は梅雨ならではの光景を得難い美として捕らえ無常の喜びに変える。うっとうしいなどと不快感を挙げつろっている様では一片の詩情も有しない証拠だなと思う。
アジサイはやはり雨の花である。それもしとしと雨、豪雨やカンカン照りの暑い太陽の中のアジサイでは情緒も何もない、
花はまさに四季折々、四季と相まってその美しさが映える。花の命は四季との協演である。春は桜、梅雨にアジサイ、夏の強烈な太陽にはやはりひまわりである。雨に濡れしょぼくれたひまわりではゴッホたりとも絵にならないのではないか。
梅雨に咲く花アジサイ、人の嫌がる梅雨だがアジサイを見るのは楽しい。梅雨の間の短い命だが短い命を、短いが故に精一杯咲き、ともすれば梅雨時の湿りがちな人の心を慰め励ましてくれるアジサイの小さき心根を嬉しく思う。2009年6月23日
http://www.h5.dion.ne.jp/~tom28
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